編集部ブログ

2/20(月) 11:36
カルチョメルカートの表と裏@
◇本田圭祐ラツィオ移籍破談の真相

 2001年の春、ローマの一員としてスクデット獲得を体験した中田英寿の後継者と言える日本人ジョカトーレが、同じ“永遠の都”のライバル、ラツィオに移籍する―。このところのラツィオの好調ぶりも重なり、本田圭佑の動向はイタリアでも大きな関心を集めていた。

 当然、日本でもこの移籍の行方は大きな話題となっていたことだろう。南アフリカ・ワールドカップとアジアカップでの成功を契機に、ヨーロッパで活躍する日本人選手は急増している。だが、本当の意味でカンピオーネと呼べる選手はそれほど多くないはずだ。本田は“カンピオーネの風格”が感じられる数少ない選手の一人である。実際のところ、私が彼のプレーを見たのは10試合ほどにすぎないが、彼が他の選手とは違う何かを身にまとっていることは、確かに感じられた。

 しかし、ラツィオとCSKAモスクワの移籍交渉は二転三転する。我々ローマに拠点を置くメディアも、日本からやって来た記者たちも、錯綜する情報の中で“何が正しいのか”を判別するウラ取りの作業に追われていた。それでも、メルカート最終日の1月31日の早朝、ローマの新聞には楽観的な見出しが並んだ。本田のラツィオ移籍は、「ほぼ決定事項」として報じられていたのである。

 イタリアのカルチョメルカートは1月31日の19時をもって終了する。“運命の一日”の始まりだった。

だが、それは違った。

実は、この日の朝の時点で、CSKAモスクワとラツィオとの交渉は既に決裂していたのだ。

(記事提供:CALCiO2002)