日本とブラジル…世界一遠い国が繋がる移民の絆


サンパウロで長距離バスに乗り込むと、いきなり後部座席から声をかけられた。



人口1100万人を超えるサンパウロは、南米最大の都市という顔とともに、世界屈指の犯罪都市としても名を轟かせている。外国人旅行者と思しき人物が突然話しかけることは、スリや盗難被害の典型例。しかし、見知らぬ土地で、あまりに唐突に背後から声を掛けられても、不思議と恐怖はなかった。



相手の要求通りに下がっていたリクライニングシートを上げると、声の主は「中国人、ですか」と問いかけてきた。ところが、怪しさは一切ない。彼女の日本語による問いに、「ハポン」とスペイン語で日本人だと返答したことが、どこか滑稽だった。彼女はこちらの答えを聞くと、「そうですか〜。遠かったでしょう」と人懐っこい笑顔とともに長距離移動を労ってくれた。



彼女の名前は、オオノフミコ。日系二世の女性だった。







聞けば、隣に座る大学生のお孫さんがアイドルのコンサートから帰ってくるところを、バスターミナルまで迎えにきていたという。行き先を聞かれ、「いんだいあつーば」とたどたどしく答えると、「私達も一緒よ」という。



一人でバスに乗車していたこちらを何かと心配をしてくれるフミコさんは、サンパウロ生まれの「パウリスタ」。日本代表のベースキャンプ地であるイトゥから約30キロのところにある土地で、本人曰く「年金暮らし」を送るとともに、マッサージ屋を営んでいるという。あまりの日本語の流暢さに驚くと、「両親は日本語だったから」という言葉とともに、2004年から6年間にわたって豊田市や仙台市などで弁当の製造業に従事していた日本での生活を明かしてくれた。



「お弁当にワッフルついているでしょ、あれは私が作っていたの」、「働きっぱなしだったわね」、「富士山には行きたかったわ」と当時を懐かしそうに振り返る話に耳を傾けていると、いつの間にかに目的地に到着していた。







ただ、歓待は終わらない。彼女達をバスターミナルまで迎えに来た娘さんの車に同乗させて頂く。街中を案内してもらい宿まで送り届けてもらうとともに、数日後には、わざわざ宿まで「風邪は引いていないか」と心配の電話まで入れてきてくれた。



フミコさんの案内もあって、すっかり慣れた「インダイアトゥーバ」の街を離れる前夜。少しばかりの御礼にでもなればと、マッサージ屋を訪れた。驚きながらも、夜遅くにもかかわらず再び笑顔を見せてくれると、ご主人のグイードさんのあん摩マッサージが始まった。



大きな両手による指圧を受けながら、奥さんには大変お世話になったという話を振ると、「ああ、話していたね」という。話の流れで、バスの車中で出会った際に奥さんにも聞いた質問を投げてみると、さすが夫婦である、答えは一緒だった。



「何で世話をするかって? 僕らが日本に行った時は、右も左もわからなかった。そんな中で、日本のみんなは大変よくしてくれた。色々と教えてくれたからね。その時の御礼が少しでもできたらと」







夫妻はかつて、サンパウロで弁当配送業を営んでいた。ところが、サンパウロの治安は悪い。ブラジル人である彼らも、配送用のワゴンを度々盗まれ、グイードさんのこめかみに拳銃を当てられて脅されることもあった。治安の悪さに嫌気が差して、日本への移住を決めたという。



ところが、日本での生活も2009年に終わりを告げる。彼らは日系人ではあるが、れっきとしたブラジル人。不景気に苦しむ会社から、人員削減のために帰国するよう求められたという。再びブラジルで生活を送ることになったが、フミコさんは、「日本での生活に後悔はない」と力強く言い切っていた。マッサージ屋兼用の自宅には、日本での送別会の際に撮られた日本人従業員と夫妻が収まる写真とともに、「ありがとう」という日本語で記された色紙が飾られていた。治安や景気に左右されながらも、写真の中でも目の前でも夫妻は変わらず笑顔だった。同時に、二人の深く刻まれた笑い皺には、ブラジルと日本両国での苦労が表れている思いもした。



日本とブラジルは、地球上では最も遠い位置関係となっているが、思いは距離をも超えるのだろう。







1908年、わずか791人から日本人移民は始まり、言葉も通じない中で畑を耕すことから、日々を重ねてきた。ブラジルでは現在、約150万人とも言われる世界最大の日系人コミュニティを形成している。時に国家に翻弄され、時に時代の波に飲み込まれながらも、ブラジルと日本の絆は深く、そして強さを増していった。



別れのときになっても、夫妻は最後までこちらの身を案じてくれた。



「困ったことがあったら、いつでも言ってね。日本に帰ったら電話してね」



絆は、今も深さを増している。


【プロフィール】
小谷紘友(おたに・こうすけ)
1987年、千葉県生まれ。学生時代から筆を執り、この1年間は日本代表の密着取材を続けてきた。尊敬する人物は、アルゼンチンのユースホステルで偶然出会ったカメラマンの六川則夫氏。

《 現地発!海外記者コラム一覧